大田黒元雄とその父

昨秋の大田黒公園は紅葉がひときわ美しく、テレビで紹介されたこともあり、たいへんな賑わいでした。同公園は皆さんご承知のように音楽評論家・大田黒元雄(1893ー1979)の屋敷跡地につくられました。

昭和八年、元雄はエッセイ集「奇妙な存在」の扉にこう記しています。「二十年あまりすごした大森から私は先ごろ荻窪に居を移した。等しく新市街ではあるが、朝夕の微風が近くの畑から肥料の匂いを運んでくるこの土地は大森に比して遥かに野趣に豊かである。(中略)松の樹蔭に新築中の書斎が出来上った時、私は自分の著作上の荻窪時代を開始したと思ってゐる。」

いまも松の木立に囲まれて建つ洋館がその書斎です。この年40歳を迎えた元雄は、野趣に富んだ荻窪の地に居を移し、心機一転をはかろうとしたのでしょう。

日本の音楽評論家の草分けとして知られる元雄ですが、写真、野球、探偵小説、さらにファッションにも造詣が深く、戦後はNHKラジオ番組「話の泉」のレギュラー出演者としても活躍しました。その人柄を、音楽評論家の吉田秀和はこう評しています。

「大正リベラリズムが生んだ典型的な教養人、「文化人」の一人で、小田原の財産家に生をうけたからかどうか、人間的に実に大らかで、のびやかなところがあり、魅力ある人だった(「近代日本最初の批評家」)

「小田原の財産家」と吉田が書いた元雄の父・大田黒重五郎(1866ー1944)は、芝浦製作所(東芝の前身)を再建し、箱根水力発電会社をはじめ、現在の電力会社の前身となる水力発電会社を各地で設立した実業家で、元雄はその一人息子でした。重五郎は、口述の自伝で、こう語っています。

「元雄は、幼い時から一度だって、頭なんか叩かないで済んで来た。(中略)これも妻が良い女であったから、私が頭を殴らずに済むやうな子供をつくりあげて呉れたのかもしれない。(中略)もう一つ幸いなことは、元雄夫婦の間にも争いがないことである。」

武蔵野の面影を残した庭は日本庭園として整備されましたが、公園に流れるどこかおっとりした空気は大田黒親子の遺産かもしれません。

文化厚生部 松井和男