大田黒元雄氏とオリンピック

 大田黒公園のかつての主・大田黒元雄氏は音楽評論家として知られていますが、スポーツ観戦が好きでした。オリンピックも、1924年のパリ大会、1928年のアムステルダム大会に足を運び、後者では、三段跳びで日本に初の金メダルをもたらした織田幹雄選手の優勝を目の当たりにしています。氏が書いた「オリンピックの記憶」という随筆から、その部分をご紹介しましょう。

「三段跳びの予選の結果が標示された。第一の組の一等は二五七番(15m21cm)、第二の組の一等は二五五番(15m1cm)でプログラムの番号を見ると、織田と南部なのである。「このちょうしだと君ヶ代らしいぜ」と我々は微笑し合った。決勝は六人で三度づつ跳ぶのである。三度目の時に織田は素晴らしく跳んだけれど惜しいことにファウルであった。ところで二度跳び損じていたアメリカのケエジイが三度目にかなり跳んだ。見ている我々にはまだ誰が勝ったのかわからない。織田の様子を見ると例の通りうつむいて困ったような顔をしているので或いは負けたのかとも思われた。けれでもやがて織田のまわりに写真師が集まってきたので、「まずこれで安心だ」と我々は笑った」

そして、表彰式を迎えます。「日の丸がゆっくりと真中の旗竿に大きくあがたt。但(ただし)、楽隊の吹奏した君ヶ代は甚だ変な具合に始まった。近くにいた我々にさへ最初の二三小節はよく聞こえなかった。それでも日本人の一団の来ていた遠くの方のスタンドからは、合唱の声が起こった。我々も歌った。近くの席にいたドイツ人たちは我々の方を向いてみんな帽子を振りながら歓呼してくれた。八百メートルのためにつかれた足を引きずりながら織田と南部のいるところまで来ていた人見絹江は、南部の肩にもたれて泣いていた」「場外には選手のサインを求める子供たちが大勢いたが、我々の姿を見ると「オダ、オダ」と云いながらむやみに手帳と鉛筆を押し付けた。そして事実我々も町を歩きながら、その日は妙に肩身が広い気がした」

 ちなみに、人見絹江は、この日、八百メートルで第二に入り、日本女性として初のメダルを獲得。「我等の日本女性観は間違っていた」と米紙にいわしめました。

文化厚生部 松井和男