二枚の写真から

荻窪地域区民センターが隔月で発行している広報誌「わたしの荻窪」をご存じですか。回覧板で目を通していらっしゃる方も多いと思います。ところで、今年の2,3月号には、期せずして、戦後の荻窪の変化を象徴する写真が見開きページに並びました。

まず右下のカラー写真。先日、荻窪地域区民センターで開催した「アート展」の特別展示「神津港人の風景画」に出品された昭和21年(1946年)作の「荻窪風景(善福寺川)」です。荻窪四丁目に居を構えていた神津画伯は、荻外荘の下にイーゼルを立てて、この絵を描いたと思われます。川の横に広がるのは、田端田んぼ。遠くに見える木立は、松蹊中学の名の由来になった松山と思われます。展示を訪れた年配の方々によれば、子供ころは、このあたりで魚とりに興じたとのこと。とれた魚はフナ、ハヤ、タナゴ、ドジョウ、ウナギなど。また、夏には蛍が飛び交い、カエルの合唱がうるさいほどだたっといいます。

つぎに、左の「町名の由来と今」欄に載ったモノクロ写真(郷土博物館 蔵)をご覧ください。「西田端橋(荻窪二丁目8番付近・昭和37年頃)というキャプションがついています。上の方に写っているのは、昭和33年(1958年)に竣工した「荻窪団地」、田端田んぼを埋め立てて建てられました。神津画伯の絵から16年たって、善福寺川はすっかりどぶ川のようになっています。

さらに半世紀以上たったいま、「荻窪団地」は建て替えられて、「シャレール荻窪」となり、川は護岸され水は澄んできましたが、かつての面影はありません。

さて、左の記事は、昭和6年7月25日の東京日日新聞「思ふまゝに」欄に載った入澤達吉博士へのインタビュー記事です。入澤博士は大正天皇の侍医を務めた医師で、のちに「荻外荘」となる邸宅を建てた人物ですが、記者の質問に答えて、荻窪に居を構えた理由をこう語っています。「家の中から居ながらに田植えもみえる。田園情調横隘だ。(中略)だから、時々友達が来てもらって田園情調のご馳走をする。」まさに隔世の感がありますね。

文化厚生部 松井和男(荻窪地域区民センター副会長)